徒然に.

創価学会について思うことを書く予定です.

題目

前回のエントリ(内生的折伏決定理論)では,創価学会員の勧誘活動がどのような水準で決定されるかについて,数学モデルを構築することでその説明を試みた.モデルには,信者ごとの勧誘能力,彼らのもつ利他性,組織的な勧誘行動や友人の折伏拒否といった実際に考えられる勧誘活動の重要な要素が組み込まれている.勿論,動学的な分析など残された課題は多いが,彼らの宗教行動を説明するための基礎的な試みとして一定の意味があると考えたい.

題目

さて,今回は以前のエントリ(宗教活動)でも少し言及した勧誘活動以外の宗教活動,「題目」に焦点をあてたい.繰り返しになるが,「題目」とは「南無妙法蓮華」と唱えることである.「南無妙法蓮華」というワードの仏教的な意味についてここでは深く立ち入らないが,彼らはこの「題目」を唱えるという宗教活動を,最も重要でかつ基本的なものと位置づけている.

勧誘活動である「折伏」と比較すると,「題目」は他者との関わり合いが無くても成立するという点に特徴がある.無論,「同盟唱題」と名付けられる「題目」の開始・終了時間に取り決めを行い,同じ時間の異なる場所で「題目」を唱える形態や,宗教集会で大勢の信者とともに「題目」を唱えるといった形態も多々見受けられる.しかし,今回は信者個人における「題目」の行動原理に重きをおくことにして,「題目」における他者との相互関係については捨象して考えよう*1

彼らはなぜ「題目」を唱えるのだろうか?以前のエントリ(勧誘と入会 ver.2)でも触れたように,その答えは彼らが「題目」にメリットがあると考えるからに他ならない.では一体,その「題目」に由来する信仰メリットとは何なのであろうか?今後は当面,それを生産性・賃金率の上昇と単純化して捉えたい.宗教活動全体でみれば,宗教活動そのものから直接的に信仰のメリットを享受するということは考えやすい.例えば,勧誘活動ではその性質から多くの人間と関係することが不可欠であり,その相互関係そのものから満足感を得るということもあるだろう.しかし,ここで考える信者個人の「題目」活動は,「南無妙法蓮華」と唱え続ける反復活動でしかない.この反復活動中に自身の将来における行動計画を合理化し,それを彼らの生活に帰還するという過程が「わかりやすい」題目の信仰メリットだ.勿論,彼らはこの他にも「わかりにくい」題目のメリットを信じているかもしれないし,ここでそのことは否定されない.本エントリにおける重要な想定は,信者は「題目」活動そのものから満足感を得ることはなく,「題目」を唱える時間の増加が将来の生産性・賃金率の向上をもたらすという人的資本への投資のような性格をもつということである*2.この想定を踏まえた上で,次回は彼らにとっての最適な題目時間がどのようにして決定されるかについて数学的な表現を試みたい.

*1:信者間での時間的・空間的なルールを伴う「題目」行動は一種のモニタリングと考えられる.信者間の相互関係を明示的に扱った考察も興味深く,いずれ詳しく考えてみたい.

*2:「題目」そのものから満足感を得るということも考えられる.しかし同時に,長時間の「題目」は身体的な負担を伴うから,「題目」そのものが満足感を低めるという性質も考えられる.以上のことから,ここでの想定を「題目」そのものから直接的に得られるメリットとデメリットはちょうど相殺され,その間接的なメリットのみを取り扱う単純化であると考えても差し支えない.