読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

徒然に.

創価学会について思うことを書く予定です.

確信

前回のエントリ(信仰のメリット - 徒然に.)では,信者の不等式(A - B ≧ 0)のメリットの程度AをA1,A2,A3の3つに分類し,この不等式が成り立つためにはA2,A3が重要であることを述べた.今回はA2,A3が増加し,彼が安定的に創価学会員であり続ける理由について考えたい.

信仰体験

彼らは「体験」を重視する.「体験」とは信仰体験のことである.宗教活動を通して得たメリットを,信者間ないしは勧誘活動の一環として広く共有することが彼らにとっての主要なイベントの1つとなっている.いま,A2やA3の増加が重要であるが,信仰メリットのメカニズムを論理的に説明することが困難となると,彼らの実体験にうったえる以外の効果的方法は確かに思い当たらない.

「体験」は必ずしも宗教活動と得られたメリットの論理的な結びつきを必要としない.極端な例だが,お金に困っているときに「題目」を10時間唱えたら宝くじに当たったと言っても,例えそこに論理性が見出せなくても,「体験」は成立する.このような「体験」はそこに論理性が見出せないというだけで事実の列挙なわけだから,「体験」のおびただしい蓄積は宗教活動のもたらすメリットを経験的に裏付けているように見えるかもしれない.もちろん,そこには極めて論理性の高いものが紛れている可能性もあるが,ともあれ真剣に主張される膨大な「体験」がA2,A3の増加圧力となっていることは否定できない.このことを踏まえると,勧誘活動の中心に「体験」の共有を据えることは宗教団体にとって優れた戦略の1つであるといえるかもしれない.

信を以って源とす

いくら彼らの「体験」に非論理性を見出したからといっても,彼らがその信仰のメリットを非論理的だと認識した上で共有しているというわけではない.どちらかといえばむしろ彼らは当然の論理性を感じながら自らの「体験」を共有する節がある.その理由は日蓮の教えに見出すことができる.『日女御前御返事』には

仏法の根本は信を以て源とす

という記述がある.他にも「信」にまつわる日蓮の記述は多いが,とりわけ信仰のメリットは信じることにより担保されるという考え方が,彼らの中に根付いているようだ.したがって,彼らが宗教活動に熱心であるときに生じた彼らにとっての「よいこと」を信仰の産物ではないと否定する動機は彼らには無く,むしろそれがA2やA3を増加させる類いのものであったとしても,好意的に信仰の恩恵と捉える用意が整っているわけである.真剣な宗教活動を行っている間に「よいこと」がおきたならばそれを信仰と結びつけて考える方が,彼らにとってその事象を簡単に説明できる.

以上のことが正しいのであれば,どのような幸運も信仰による寄与となり得るという意味でA2,A3の増加の程度は計り知れない.一度上記の立場が固まったならば,A2,A3は「体験」の蓄積により無限に増加する余地がある.それゆえに,信者とそうでないものの決定的な違いはA2,A3の認識によるものであり,信仰の本質は宗教活動の効果を過大評価する思考を確立するところにある(私はよく彼らが言う「確信」というものは主にA2,A3の増加であると考えている).

ここでの「過大」とは,彼の信仰のメリットが,十分にもっともらしい論理性をもっている場合のメリット(A1)に比較して大きい,つまり,A2 + A3 > 0 が成立しているという意味である.このことは,彼らが必ずしも本当の信仰の効果よりもそれを過大に評価していることを意味しない点に注意したい.なぜならば,少なくともA2のメリットはその検証が難しい問題であり,実際のところよくわからないからだ.

これまで4回にわたって彼らが何故信仰するのかを考えてきた.そのための枠組みは極めて素朴であるけれども,私は彼らの信仰理由を説明するための第一歩として有用であると思っている.次回は,今までの内容を整理するために簡単な数学的表現を掲示する予定だ.

広告を非表示にする