徒然に.

創価学会について思うことを書く予定です.

信者の不等式

前回のエントリ(創価学会員が信じていること - 徒然に.)では,多かれ少なかれ日蓮池田氏の教えを信じていることが,彼らが創価学会員であるための実質的な必要条件であることを書いた.一方で,彼らが何故それらの教えを信じるのかは,彼らが「外部」とよぶ人々にとって不思議で興味深いことであるし,もしかすると信心深い彼ら自身も,その理由をよくわかっていないかもしれない.今日はその「信心の理由」について簡単に記したい.

シンプルな答え

私は彼らが何か非常に複雑で深遠な理由から日蓮池田氏の教えを信じているとは思わない.彼らはただその教えを信じ行動することが彼らにとってよいと考えているから,教えを信じているにすぎない.

もう少し具体的に考えてみよう.例えばある人物の,

  • 信者であることから得られるメリットの度合いをA
  • 信者であることから被ってしまうデメリットの度合いをB

としよう.もし彼が合理的なのであれば,信者であることのメリットがそのときのデメリットを上回らない限り彼が信者であるはずがない.つまり,彼が信者であるとは,彼が A - B ≧ 0 と考えているということに他ならない(イコールをつけるかつけないかについては,ここではあまり気にしない).

信者を決定する要因

では,AやBとは一体何によってもたらされるのだろうか.信者であることのメリットは,集会で信仰体験を聞くことで元気が出るだとか,朝夕の「勤行」で生活リズムが整うだとか,個人によって違いはあれど,その候補を考えることは容易い.一方のデメリットはどうかというと,集会参加のために仕事を休む必要が出るだとか,勧誘や選挙活動で「外部」の人々に疎まれるだとか,こちらも枚挙にいとまがない.

検証すべきことではあるが,信仰によって生じるデメリットの程度は上述の例から推察するに,小さいレベルでしか変動しないと考えられる.もちろん,彼が地方在住者であれば信者が少なくて宗教活動の負担が重くなったり,集会会場が遠くて労力がかかるなどと,いくらか都心に在住するときと比べてその程度は変動するだろう.他にもデメリットに関する可変性を考えることはできるが,しかし,私はAに比べればそれはそう大きなものではないと思っている(Bの水準や変動についてはまたの機会に書きたい).

結論を言うと,私は A - B ≧ 0 という信者の不等式Aの性質によって成り立っていると考えている.次回は,このAを増大させ,信者を信者たらしめている要因が一体何なのかということを考えてみたい.

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